そもそも
自由律俳句ってなんでしょうか。
よく言われます。
「自由律俳句ってなんでもありなんでしょう?」
「自由律俳句って俳句なの?ただの文だよね?」
たしかに自由律俳句って五七五でもないし季語もありません。
いわゆる「フツウの俳句」とは違います。
でも、
僕は自由律ってすっごく俳句していると思っています。
そもそも俳句ってなに?
五七五のリズムなら俳句?季語があれば俳句?
五七五のリズムかつ季語で俳句?
俳論家で無季自由律を提唱した荻原井泉水は俳句をこう定義しています。
「俳句は一つの段落をもっている一行の詩である」
俳句とは、まず「一行の詩」であること。
そして「一つの段落をもっている」こと。
これが俳句の定義だというのです。
(「一つの段落」とはいわゆる「切れ」のことと思って差し支えないでしょう)
ここで海紅の代表的俳人、山崎多加士の句をご紹介します。
梅が咲いたわたしのにぎりこぶし 多加士
この句は、
梅が咲いた/わたしのにぎりこぶし
と切れるでしょう。
そして僕はこの句に詩を感じます。
「一つの段落(切れ)」があって
「一行の詩」であるこの作品
五七五ではありませんが、僕はこの作品を俳句だと思っています。
もちろん、ここで紹介した俳句の定義は荻原井泉水による定義です。
五七五で季語がないと認めないという人もいるでしょうし、
五七五だけど季語はなくてもOKという人もいるでしょう。
つまり、正解なんて無いんです。
多数派、少数派には分かれますが、
それも時代によって流行り廃りがあるでしょう。
大切なのは作者一人一人が俳句にどう向き合うか、
結局これに尽きると思います。
他にも「自由律俳句の歴史」や自由律の「律」についての話、
書きたいことはまだまだありますが
今日のところはこのへんで。
あなたが佳き句に出会わんことを…。